歌えない日々-1

幸福を売る男

芦野 宏

3、音楽学校と卒業後

楽しい生活-2 つづき
世の中が少しづつ変わってきて豊かになりはじめていたが、それでもまだまだダンス教室は珍しい時代で夜の七時から九時までは初心者が釆て賑わった。
若かりしころの小玉光雄画伯(二科会〉も私の生徒だったし、ファッション・デザインの伊東茂平教室の先生方もたくさんみえた。
私は小遣い銭にも困らず、いつも仕立ておろしの上等な服を着て学校に通った。今でも毎年六月に同窓のクラス会があり十数人は必ず集まるのだが、「あのころの芦野さんは一人だけおじさんみたいで、同級生の感じがしなかった」と言われている。
歌えない日々-1
学校は楽しかった。しかし、なにもかもうまくいっているわけではなかった。
入学してまもなく、中山悌一先生がドイツへ留学されることになったからだ。
しかも夫人同伴で何年になるかわからないという。門下生たちは額を集めて悩んだが、どうしようもなかった。
大賀典雄さん(現・ソニー会長)は中山先生から折り紙つきの有望なバリトンで、将来を嘱望されていたから、ほんとうに失望した表情で「中山先生以外にはつきたくないんだ」と私にこぼした。私だって受験勉強でお世話になり、心から尊敬していただけに思いは同じだったが、せっかく入学できた学校をやめるわけにはいかない。私は中山先生から同じ二期会創立メンバーの柴田睦陸(むつむ)先生を紹介されて、学校で個人指導を受けることになった。
今まではバリトンの中山先生の声を模倣することから始めた勉強だったから、とつぜん声域の違うテノールの柴田先生に代わったとき、初めはなかなか馴染めずに困惑し苦しんだ。
柴田先生は発声法の大家といわれている方であり、じつに懇切ていねいに指導してくださる。学校のレッスン日に先生が都合で休まれるときは、成城のご自宅まで出かけて、まず呼吸法から教わった。下腹部に手を当てて歌わせることはまだ初歩の段階で、床の上の絨毯(じゅうたん)に仰向けに寝かされ腹の上に分厚い重たい本をのせて、その動きを見ながら歌わせる。
そのような腹式呼吸法を指導してくださったり、発声についてはもっと厳しく、咽喉の奥を開くこと、そのためには割り箸で舌の根を押さえて腹の底から声を出す訓練に特別に長い時間をかけてくださる。
声を頭蓋骨に響かせて前に響かせる歌い方、いわゆる頭声の出し方、あるいは胸に響かせる胸声の出し方。先生ご自身が体験されたことを忠実に、ちょうど親鳥が雛に餌を与えるように教えてくださるのである。まったくの初心者であった私にとっては、珍しくてびっくりするこ
とばかりであった。奥様はソプラノの久保田喜代子さんで、そのころはまだ研究科に籍を置く有望な新人であった。
「おい、喜代子、芦野君の歌、一緒に聴いてくれよ」と言っていつも一緒に指導してくださるような仲の良いご夫婦だったが、先生は学生の一人ひとりに、まるでわが子のような愛情を注いでおられた。